アニメのガンダムシリーズ用にデザインされた精悍なロボットを可愛い体型にアレンジしたSDガンダムは人気があり、長きにわたり続いている。

スーパーディフォルメガンダムワールドが企画された時にデザイナーとして起用された横井孝二は、その時はまだ高校生だった。



インターネットが無かった時代の出来事

模型情報の読者参加ページにて、横井孝二が投稿した絵が度々掲載された。


1981年10月25日に発行された模型情報1981年11月号にて、機動戦士ガンダムのグフの絵が掲載された。この時は13歳の中学2年生だった。ペンネームは漫画家の鳥山明を真似て、鳥山劣にしていた。
メモ 横井孝二の生年月日は、1968年3月12日。ペンネームの鳥山劣は、とりやまおとると読む。


1982年2月25日に発行された模型情報1982年3月号にて、鉄人28号の絵が掲載された。この時は13歳の中学2年生だった。


1982年3月25日に発行された模型情報1982年4月号にて、機動戦士ガンダムのズゴックの絵が掲載された。この時は14歳の中学2年生だった。
メモ 横井孝二の生年月日は、1968年3月12日。4月から中学3年に進級。


1982年4月25日に発行された模型情報1982年5月号にて、機動戦士ガンダムのMS-06RザクIIの絵が掲載された。この時は14歳の中学3年生だった。


1982年6月25日に発行された模型情報1982年7月号にて、ドクタースランプのリブギコとキャラメルマン1号の絵が掲載された。この時は14歳の中学3年生だった。


1982年12月25日に発行された模型情報1983年1月号にて、ザブングルの旧式ホバギーとレッグをデフォルメした絵が掲載された。この時は14歳の中学3年生だった。鳥山明が描いたドクタースランプの世界に馴染みそうな雰囲気がある。


1982年12月25日に発売されたホビージャパン1983年1月号にて、映画のキャラクターをデフォルメした絵が掲載された。この時は14歳の中学3年生だった。
メモ 掲載住所は現在は会社が建っているため、加工せずに当ページに掲載した。


1983年1月25日に発行された模型情報1983年2月号にて、ダンバインをデフォルメした絵が掲載された。この時は14歳の中学3年生だった。


1983年5月25日に発行された模型情報1983年6月号にて、幻魔大戦のベガをデフォルメした絵が掲載された。この時は15歳の高校1年生だった。


1983年6月25日に発行された模型情報1983年7月号にて、ザブングルのギャロップの上にザクの頭を描いた絵が掲載された。この時は15歳の高校1年生だった。


1983年12月1日に発行された模型情報1983年12月号にて、メカニコングをデフォルメした絵が掲載された。この時は15歳の高校1年生だった。


1984年2月20日に発行されたデュアルマガジン別冊3Dジャーナル創刊2号にて、チョロQボトムズのプレゼントキャンペーンが行われた。横井孝二は葉書に絵を描いて応募したため、1984年4月20日に発行された同誌第3号にて応募時の葉書が掲載された。応募時は15歳の高校1年生、掲載時は16歳の高校2年生だった。
メモ 掲載住所は現在は会社が建っているため、加工せずに当ページに掲載した。
メモ 1984年1月20日に発行された3Dジャーナル創刊号にて、スコープドッグをデフォルメした絵が2点掲載された。しいばみつおと小出拓が描いた。
メモ タカラから発行された3Dジャーナルは、バンダイから発行された模型情報から着想を得た可能性がある。
メモ 3Dジャーナルの裏表紙にて記載されている発行日は、発売日を意味する。


バンダイ模型=バンダイ静岡工場の技術部デザイン課にて発行された模型情報

静岡県にあったバンダイ模型は、バンダイの子会社として1971年5月8日に設立された。
メモ 1969年7月9日にプラモデルメーカーの今井科学が会社更生法の適用を申請して、バンダイが今井科学の清水工場の土地と建物と金型を買い取り事業を引き継いだ。バンダイ清水工場という部署名にしていたが、発足から1年6か月後に株式会社バンダイ模型になった。


模型情報は、プラモデルの箱や組立説明書を作製していたバンダイ模型の技術部デザイン課が発行していた月刊情報誌で、同課にいた加藤智が編集していた。模型情報というタイトルを決めたのも加藤智で、右開き、縦書き、軽い文体は、平凡出版の雑誌POPEYEから着想を得ていた。
メモ 加藤智は、1975年にバンダイ模型に入社した。 模型情報の裏表紙にて記載されている発行日は発売予定日を意味していて、遅れて発売されたことが度々あった。


1983年3月1日にバンダイ東京本社はバンダイ模型、バンダイ工業、バンダイ出版、バンダイオーバーシーズ、ポピー、マミート、セレンテを合併して、バンダイ模型はバンダイ静岡工場という部署名になった。
メモ 1983年3月に、ホビー事業部、ポピー事業部、特機事業部、マミート事業部、セレンテ事業部、レミー事業部、エレクトロニクス事業部が組織された。8月にアパレル事業部が追加されて、さらに新会社エイ・イー企画が設立された。


模型情報の誌面にて編集部や編集室という呼称を用いていたが、加藤智が1人で編集していた。模型情報の発行部数が多くなると、雑務担当として女性社員が1人配属された。そして1985年に安蒜利明が入社して模型情報に配属された時には女性社員は2名いて、編集部はパーテーションで仕切られた空間になっていた。
メモ 最初に配属された女性社員の青山弥生は、模型情報1984年12月号と1986年12月号にて写真が掲載された。その後に追加された女性社員の件は、バンダイ静岡工場にいた外岡仁に問い合わせて、情報を得た。
メモ 加藤智が1人で模型情報を編集していた件は、増尾隆之秋山徹郎北崎拓に問い合わせて、情報を得た。
メモ フリーライターを起用して、取材と執筆を任せていたページもあった。


模型情報1981年11月号にて、フリーライターの安井尚志が紹介された。安井尚志は、1988年から超戦士ガンダム野郎等のSDガンダムを題材にした漫画の原作を執筆した。


横井孝二の絵に変化あり ! アニメのチョロQダグラム

横井孝二は杉原昌子と同時期に、模型情報に起用された。きっかけは、横井孝二が加藤智に合同誌を投稿したことだった。


合同誌にて掲載された漫画に興味を持った加藤智は横井孝二に電話して、模型情報にて4コマ漫画を掲載することが決まった。
メモ ボトムズの漫画は、模型情報には掲載されなかった。後に、横井孝二が発行した同人誌√O・BOX鳥山劣個人集にて掲載された。


1984年3月1日に発行された模型情報1984年3月号にて、4コマ漫画の第1回目が掲載された。この時は15歳の高校1年生だった。

4コマ漫画にて描かれているダンバインは、関節の可動を気にせずに大胆に縮めて、横幅がありぽっちゃりしている。


模型情報1983年2月号と1984年3月号の間には、1983年7月9日に公開されたアニメのチョロQダグラムがある。この点から横井孝二はアニメのチョロQダグラムから着想を得て、デフォルメのバランスを変えた可能性がある。
メモ 横井孝二にインタビューした記事は、どれも鳥山明の作品から影響があったことを述べている。しかし情報を遮断した場合を除いて、創作者は様々な創作者の作品から影響を受け続ける。横井孝二はチョロQボトムズのプレゼントキャンペーンに応募していて、情報は遮断していなかった。横井孝二が発行した同人誌√O・BOX鳥山劣個人集にて掲載されたメカゴジラの絵も、1983年12月に発売されたチョロ獣メカゴジラの絵から着想を得た可能性がある。
メモ 横井孝二はアニメのチョロQダグラムの公開以降に、頭が大きく脚が極端に短いデフォルメのロボットを描くようになった。
メモ 横井孝二は、鳥山明が1981年に描いたズゴックから影響を受けた様子は見られなかった。そして鳥山明は関節の可動を気にしていたのか、箱状の人型ロボットは大胆に縮めるデフォルメはしていなかった
メモ 横井孝二はまだ15歳の高校生で、創作活動の経験年数は少なかった。現在の横井孝二と、14歳~15歳時の横井孝二を同等に解釈してはならない。
メモ 横井孝二に問い合わせたが、返答は得られなかった。


チョロQダグラムは、場面ごとにデフォルメのバランスが異なる。その中で、関節の可動を気にせずに大胆に縮めて、横幅がありぽっちゃりしている絵が、横井孝二が4コマ漫画にて描いたダンバインの雰囲気に近い。スタジオ・ライブの松下浩美は、チョロQダグラムのメカ設定画にてダグラムの腕と脚を少し長めにして描いたが、原画を担当したスタジオ・ライブの誰かが、可愛くアレンジして描いてしまった。
メモ テレビマガジン1983年8月号にて、同場面が掲載された。
メモ ロボットの各パーツが密着していても、アニメーションの場合は原画担当者と動画担当者がぬいぐるみ的に曲げる方法で処理するため、問題にはならない。


デフォルメのラウンドフェイサーの絵も、横井孝二が4コマ漫画にて描いたダンバインの雰囲気に近い。


デフォルメのラウンドフェイサーの絵は、ドキュメント太陽の牙ダグラムのパンフレットと、マイアニメ1983年8月号にて掲載された。
メモ ゼネラルプロダクツの包装紙にて掲載されたデフォルメのロボットの絵は、アニメのチョロQダグラムから着想を得た可能性がある。住所が桃谷1-5-22になっているため、1983年末から1984年末の間に印刷された可能性がある。
メモ 1985年にバンダイのポピー事業部から発売されたひょうきんもびるすーつの箱の裏面にて、デフォルメのガンダムMk-IIの絵が掲載された。デフォルメのバランスは、アニメのチョロQダグラムから着想を得た可能性がある。


1983年~1984年にタカラが披露したデフォルメのロボット

日本サンライズのロボットを大胆にデフォルメした完成品フィギュアが、タカラから4種類発売された。


チョロQのプルバックゼンマイを内蔵していて、変形して走行する。

1983年10月頃発売
チョロQダグラム

1984年3月発売
チョロQボトムズ

1984年6月発売
チョロQゴーグ

1984年11月発売
チョロQガリアン

チョロQダグラムは1983年10月頃、チョロQボトムズは1984年3月、チョロQゴーグは1984年6月、チョロQガリアンは1984年11月に発売されて、スローペースな開発だった。
メモ チョロQダグラムのフィギュアの発売月については、1983年11月20日に発行されたデュアルマガジン別冊3Dジャーナル創刊準備号にて発売済みになっていたため、10月頃に発売されたと判断した。写真は、1983年9月30日に発行されたデュアルマガジン第6号1983年AUTUMNにて掲載された。
メモ チョロQダグラム、チョロQボトムズ、チョロQゴーグ、チョロQガリアンの箱絵と、デュアルマガジン別冊3Dジャーナル創刊2号の表紙にて掲載されたデフォルメのスコープドッグの絵は、加藤隆治=狩那匠が描いた。
メモ 1984年4月にタカトクトイスから発売された超時空要塞マクロスのバルキリーをデフォルメしたパロメカは、チョロQダグラムから着想を得た可能性がある。1983年8月頃に企画が立ち上げられて、企画当初の製品名はバルチョロだった。


1984年5月以降、タカラはチョロQ系の完成品フィギュアをパロキャラと呼称して、略称はPCと呼称した。タカラの各出版物にて、ロゴが掲載された。
メモ パロキャラブックは、チョロ獣ウルトラマンシリーズのチラシまたはクルマブックNo.4にて掲載された応募券を切り取り、60円切手と一緒にしてタカラに送付すれば入手できた。

1984年6月発売
Qロボゴーグ
1/Q SAK Qロボゴーグ

1984年7月発売
Qロボゴーグ 必殺!ヘリタタキ
Qロボゴーグ 激戦!きゃぴりんキック
Qロボゴーグ KURU・KURUドリーム

1984年6月にタカラから、巨神ゴーグをデフォルメした完成品フィギュアが1種類とプラモデルが1種類、1984年7月にプラモデルが3種類発売された。1984年6月に発売されたチョロQゴーグよりも頭は大きく、脚は長い。


バンダイ静岡工場の技術部開発課にて企画開発されたロボチェンマン

1982年6月1日に発売された別冊コロコロコミック第8号にて、RX-78ガンダムのプラモデルをオガンダムに改造した記事が掲載された。


1/144の胴体に、1/60の頭を付けていた。

1982年~1983年前期、バンダイ東京本社のホビー事業部とバンダイ静岡工場が参加した企画会議にて、機動戦士ガンダムの人型ロボットをデフォルメ製品にする企画が立ち上げられた。1/144の胴体に1/60の頭を付けた感じの見本が制作されて、それに対しては否定的な意見は出なかったが、前例が無いことを理由にして企画は一旦中止になった。
メモ ロボチェンマンの開発についての細かな状況は、外岡仁に問い合わせて情報を得た。外岡仁は、1982年にバンダイ模型に入社した。
メモ バンダイ静岡工場にいた岸山博文は、1/144の胴体に1/60の頭を付けたザクを見たことがあった。

1983年7月9日にアニメのチョロQダグラムが映画館にて公開されて、同年10月頃にプルバックゼンマイを内蔵した完成品フィギュアがタカラから発売された。この時期に企画会議にて、チョロQダグラムに対抗するデフォルメ製品をプラモデルで発売することが決まった。バンダイ静岡工場の技術部開発課にいた外岡仁は、日本サンライズの人型ロボットをチョロQダグラムを参考にして大胆に縮めて、プルバックゼンマイを内蔵したロボチェンマンを開発した。
メモ 上記2つの企画会議は、静岡工場にて行われた。ホビー事業部営業課から約10名、静岡工場の技術部開発課から約5名が参加した。
メモ 外岡仁は、プラモデルになっているロボチェンマン、パロチェンマン、カワルドスーツ、完成品フィギュアになっているあそボットの全てのキャラクターのデザインと3面図の作製を担当した。
メモ この時期の外岡仁の上司は松本悟で、外岡仁が描いたアイディアスケッチをチェックしていた。松本悟は1970年にバンダイに入社して、1971年にバンダイ模型に配属された。
メモ 日本の玩具やプラモデルで、ロボットのキャラクターに男性を意味するMANがネーミングされることがある。


1984年5月17日に開催された第23回静岡プラスチックモデル見本市にてロボチェンマンの見本が6種類展示された後、1984年7月にウォーカーギャリアとバイファム、同年8月にエルガイム、同年9月にガンダムフルアーマータイプとビルバイン、同年10月にMS-06RザクIIが発売された。
メモ ビルバインは9月に発売されたが、ガンダムフルアーマータイプは10月に発売された可能性もある。
メモ 1984年6月にホビー事業部の担当でハイコンプリートモデルのガンダムフルアーマータイプ、MS-06RザクII、バイファムが発売された。


各ロボットのデフォルメのバランスは異なり、中でもガンダムフルアーマータイプはSDガンダムの第1号製品とも言える雰囲気になっている。
メモ がんばれ!SDガンダムのRX-78ガンダムは、ロボチェンマンのガンダムフルアーマータイプに雰囲気が近い。
メモ ロボチェンマンのガンダムフルアーマータイプは、1983年内には試作の走行テストを行っていた。


模型情報にて掲載されたMS-06RザクIIは試作のため、デフォルメのバランスは製品とは異なる。製品は2.4頭身になっている。


箱は、バンダイ静岡工場の技術部デザイン課にて作製された。

銀色の箱絵を描いた人は分からない。各ロボットの絵は製品を参考にして、バランスをアレンジしている。


ガンダムフルアーマータイプの箱絵は、SDガンダムの第1号製品とも言える雰囲気になっている。
メモ 顔と胴体の高さ以外は、元祖SDガンダムのRX-78ガンダムに雰囲気が近い。そして脚を短くすれば、SDエルガイムMARK1のディスプレイパネルにて掲載されたRX-78ガンダムの絵に雰囲気が近くなる。
メモ 1984年12月10日に発売されたマイアニメ1985年1月号にて、RX-78ガンダムとゴーグとバイファムを約2頭身にデフォルメした絵が掲載された。RX-78ガンダムのデフォルメのバランスは、ロボチェンマンのガンダムフルアーマータイプの箱絵から着想を得た可能性がある。いくざわのぶこ=九月姫が描いた。


MS-06RザクIIの絵は、胴体の幅を製品よりも少し狭めている。


組立説明書も、バンダイ静岡工場の技術部デザイン課にて作製された。模型情報を編集していた加藤智がいた部署だった関係で、その紙面にて、横井孝二が描いた絵が小さく掲載された。
メモ 横井孝二が発行した同人誌√O・BOX鳥山劣個人集改訂版第一刷にて、「ロボチェンマンの説明書用カットを描きました」と記載されている。
メモ 横井孝二が描いた絵は、ウォーカーギャリアからエルガイムマークIIまでの組立説明書にて掲載された。


横井孝二が描いたガンダムフルアーマータイプは、1981年に立石佳太が描いたオガンダムに雰囲気が近い。

外岡仁が技術部開発課にて企画開発したデフォルメ製品
1984年7月発売
ロボチェンマンシリーズ1 ウォーカーギャリア
ロボチェンマンシリーズ2 バイファム
テクトロンセンサロボ ロックンロボ

1984年8月発売
ロボチェンマンシリーズ3 エルガイム

1984年9月発売
ロボチェンマンシリーズ4 ビルバイン
ロボチェンマンシリーズ5 ガンダムフルアーマータイプ

1984年10月発売
ロボチェンマンシリーズ6 MS-06RザクII

1984年11月発売
ロボチェンマンシリーズ7 トゥランファム

1984年12月発売
ロボチェンマンシリーズ8 エルガイムマークII

1985年1月発売
パロチェンマン1 大魔神

1985年2月発売
ロボチェンマンシリーズ9 カミーグ
ロボチェンマンシリーズ10 カミーグガラット
ロボチェンマンシリーズ11 ジャンブー
ロボチェンマンシリーズ12 ジャンブーガラット

1985年3月発売
ロボチェンマンシリーズ13 パティーグ
ロボチェンマンシリーズ14 パティーグガラット

1985年4月発売
パロチェンマン2 ゴジラ
パロチェンマン3 キングギドラ

1985年5月発売
パロチェンマン4 ケンシロウ
パロチェンマン5 シン

1985年6月発売
ロボチェンマンシリーズ15 ガンダムマークII
パロチェンマン6 ガメラ
パロチェンマン7 ドラキュラ
テクトロンセンサロボ ベートーベン

1985年7月発売
ロボチェンマンシリーズ16 ハイザック
パロチェンマン8 フランケンシュタイン
パロチェンマン9 ウルトラマン

1985年8月発売
ロボチェンマンシリーズ17 チェンジロボ
カワルドスーツ1 ガンダムマークII
カワルドスーツ2 ハイザック

1985年9月発売
ロボチェンマンシリーズ18 リック・ディアス
カワルドスーツ3 リック・ディアス
カワルドスーツ4 百式

1985年10月発売
カワルドスーツ5 Zガンダム

1985年11月発売
ロボチェンマンシリーズ19 Zガンダム
ロボチェンマンシリーズ20 バルキリー

1986年4月発売
パロチェンマン10 ゲゲゲの鬼太郎

1986年6月発売
あそボット1 機動戦士Zガンダム ゼータガンダム
あそボット2 蒼き流星SPTレイズナー レイズナー
あそボット3 スーパーマリオブラザーズ スーパーマリオ
あそボット4 ホワッツマイケル マイケル

1986年8月発売
あそボット5 機動戦士ガンダムZZ ダブルゼータガンダム

1986年9月発売
あそボット6 ドラゴンボール 孫悟空
あそボット7 ハイスクール!奇面組 一堂零
あそボット8 スーパーマリオブラザーズ 大魔王クッパ

ロボチェンマンのチェンジロボとリック・ディアスの箱絵、パロチェンマンの北斗の拳とゲゲゲの鬼太郎を除く計7種類の箱絵、カワルドスーツの全5種類の箱絵は、増尾隆之=増尾隆幸が描いた。
メモ 増尾隆之に問い合わせて、情報を得た。
メモ ロボチェンマンのZガンダムとバルキリーの箱絵を描いた人は分からない。
メモ ロボチェンマンのガンダムマークIIとハイザックの箱絵は、増尾隆之の妻、増尾啓子=pacoが描いた可能性がある。


絵を発注したバンダイ静岡工場の技術部デザイン課は細かな指定をしなかったため、増尾隆之は自由に描いた。チェンジロボの箱絵のロボットは約2.5頭身になっていて、製品とは形が異なる。
メモ 1985年に発売された超人キンタマン プラキンタマンバカラスに雰囲気が近い。
メモ 1985年に発売されたファイアーダッシュのチェンジロボとダイレオンの絵も、製品とは形が異なる。


1985年4月15日に発売されたコミックボンボン1985年5月号から、1985年11月15日に発売された同誌1985年12月号まで、ときた洸一が描いたこちらロボ番地!が連載された。ロボチェンマンとパロチェンマンを題材にした漫画になっている。
メモ 小売店に配布された'86年バンダイ販売促進マニュアルにて、ロボチェンマンとパロチェンマンとカワルドスーツが掲載された。
メモ 小売店に配布されたロボチェンマン用のプライスカードと、ロボチェンマンとパロチェンマン用のプライスカード


1984年7月にホビー事業部から発売されたプラモデル、テクトロンセンサロボのロックンロボは、外岡仁がデザインした。上半身は禁断の惑星ロビー・ザ・ロボット、下半身は宇宙家族ロビンソンROBOT B9から着想を得たオリジナルキャラクターになっている。
メモ 手とヘッドホンのアンテナは、2種類セットされている。


ロックンロボの箱絵は、製品に忠実に描かれている。描いた人は分からない。


特機事業部自販課にて企画開発されたスーパーディフォルメガンダムワールド

スーパーディフォルメガンダムワールドを企画して、デザイナーとして横井孝二を起用したのは、特機事業部自販課にてガシャポン製品を企画開発していた佐々野雅哉だった。
メモ スーパーディフォルメガンダムワールドの開発についての細かな状況は、佐々野雅哉に問い合わせて情報を得た。佐々野雅哉は、1982年にバンダイに入社した。

1984年10月発売
重戦機エルガイム

1984年11月頃発売
重戦機エルガイム ※10月発売版に4体追加

1985年5月発売
超時空要塞マクロス
ディフォルメヒーローシリーズ

1985年7月発売
ディフォルメZガンダム PART1

1985年8月発売
スーパーディフォルメガンダムワールド PART1

佐々野雅哉と横井孝二の出会いは、偶然だった。佐々野雅哉はデザイン会社のレイアップに重戦機エルガイムのディスプレイパネルのデザインを発注したが、ロボットの絵に不満があり、雰囲気が良い絵が描ける人を探していた。バンダイ第3ビルの1階の打ち合わせスペースにいた加藤智に気づいて挨拶した時に、当時16歳の高校2年生だった横井孝二がいて、加藤智が横井孝二を紹介した。佐々野雅哉は横井孝二が描いた絵を見て気に入り、その場で1984年11月頃に再度発売する重戦機エルガイムのディスプレイパネルの絵に横井孝二を起用することを決めた。その後、スーパーディフォルメガンダムワールドのデザイナーとして横井孝二を起用することを決めた。
メモ 模型情報にて4コマ漫画が掲載されたことは佐々野雅哉は知っていたが、横井孝二に会うまでは起用することは考えていなかった。電撃ホビーマガジン2009年12月号付録のSDガンダムクロニクルにて加藤智が「佐々野くんという人物が、横井くんの絵で商品がやりたいので紹介して欲しいと言って来たんです」と言及したことは、記憶違いになる。
メモ 1984年10月11月頃に発売されたガシャポンの重戦機エルガイム1985年5月に発売された超時空要塞マクロスディフォルメヒーローシリーズ1985年7月に発売されたディフォルメZガンダムPART1は、佐々野雅哉が企画開発した。オオツカ企画が各ロボットをデフォルメにして、エルガイム、バイファム、ビルバイン、ハイザックのデフォルメのバランスは、ロボチェンマンから着想を得た可能性がある。各ディスプレイパネルにて掲載されたデフォルメのロボットの絵は高校2年生~3年生だった横井孝二が鉛筆で描いて、デザイン会社のレイアップが横井孝二が描いた絵のクリーンナップと、ディスプレイパネル全体のデザインと彩色をした。
メモ 重戦機エルガイムの10月発売版のディスプレイパネルにて掲載された絵を描いた人は分からない。
メモ ディフォルメZガンダムPART1のディスプレイパネルにて掲載された絵は後に、SDガンダム文具セットに流用された。
メモ 1985年1月29日に開催されたバンダイフェア用の特機事業部のカタログにて、銀色の試作物が掲載された。ロボチェンマンのガンダムフルアーマータイプの表現をガシャポン製品に取り入れようとしたことが分かる。しかしこの試作は、佐々野雅哉の記憶に無い。

横井孝二は名古屋に住んでいたため、佐々野雅哉はスーパーディフォルメガンダムワールドの企画のために何度も名古屋に行き、横井孝二に会った。1回目の名古屋の時はスーパーディフォルメについて説明して、円形〇の下に同径の三角△、そこに腕と、脚を省いて靴のみを付けた約2頭身の図を描いて見せた。2回目の名古屋の時に契約して、発注した絵の費用を支払い、次の絵の発注をした。ここまでは順調だったが、1985年に佐々野雅哉より1期上の柴崎誠が、2回目の名古屋分の精算書と、横井孝二の領収書をチェックした時に問題が発生した。高校生に高額な金を渡すと不良の原因になるとして、横井孝二を起用することに反対して、さらに部長の仲吉昭治からも企画の休止を求められた。しかし佐々野雅哉は横井孝二が描くキャラクターが売れると信じて疑わなかったため、3回目以降は独断で休日に名古屋まで自費で行き、追加で発注した絵の制作料も自費で支払い、企画を継続した。
メモ スーパーディフォルメガンダムワールドPART1の前に発売された重戦機エルガイム超時空要塞マクロスディフォルメヒーローシリーズディフォルメZガンダムPART1のディスプレイパネルにて掲載された絵は横井孝二が描いたが、絵の制作料は特機事業部ではなく加藤智の経由で支払いしたため、柴崎誠は横井孝二が起用されていたことに気づかなかったのか問題視はしていなかった。ちなみにディスプレイパネルの作製はデザイン会社のレイアップが行い、バンダイ静岡工場の技術部デザイン課は関わりは無い。
メモ 佐々野雅哉は1985年にスーパーディフォルメホラーワールドの製品デザインも横井孝二に発注していて、スーパーディフォルメガンダムワールドと同様に絵の制作料は自費で支払いした。デザイン会社のレイアップが横井孝二が描いた絵のクリーンナップと、ディスプレイパネル全体のデザインと彩色をした。
メモ 佐々野雅哉はスーパーディフォルメガンダムワールドとスーパーディフォルメホラーワールドの開発初期の経費を自費で支払いしたことについて、その金額をバンダイから回収したかどうかは記憶に無い。
メモ 柴崎誠は、1981年4月にバンダイに入社した。そして25年後の2006年4月に同社の副社長に就任した。


佐々野雅哉が横井孝二にデザインを発注した時に、蛆虫のごとく増殖するモビルスーツ達、さらに、蛆虫のように湧いて出てくるイメージ、を伝えたため、横井孝二が描いた絵の中に「うぢ虫ぐわんだむ」の文字がある。
メモ 「うぢ虫ぐわんだむ」の絵は、ホビージャパン2012年5月号にて掲載された。ちなみにSDガンダム デザインワークスにて掲載された絵は「うぢ虫ぐわんだむ」の文字は消去して、横井孝二のぼやき文は2行にして、改竄がある。
メモ 佐々野雅哉は、バンダイ内で見向きされなくなっていた1作目のガンダム作品から、蛆虫らしき何かが出てくることをイメージしていた。


ロボチェンマンの組立説明書にて掲載された横井孝二が描いたMS-06RザクIIと、うぢ虫ぐわんだむのザクは、雰囲気が似ている。横井孝二が描いたMS-06RザクIIの頭とスカートを上下に少し縮めて、脚を省いて靴を広げれば、うぢ虫ぐわんだむのザクになる。


1985年6月1日に発行された模型情報1985年6月号にて、スーパーディフォルメガンダムワールドの見本が掲載された。スーパーディフォルメとSDという言葉は企画当初からあったが、1985年5月の時点では製品名はまだ決まっていなかった。宮本原型という会社が原型を制作して、鍬形加工が生産した。
メモ 宮本原型は蝋型の製作を専門にしていて、蝋型の元になる原型は宮本原型の下請けが制作していた可能性がある。
メモ 同ページにて、特機事業部が担当したディフォルメZガンダムPART1と、ホビー事業部が担当したロボチェンマンのガンダムマークIIも掲載された。
メモ 1985年に出願されたらしいSDの玩具の商標登録が見つからないため、旧デザインは更新されなかった可能性がある。新デザインは2000年に出願された。スーパーディフォルメの玩具の商標登録は、1992年に出願された。


スーパーディフォルメガンダムワールドPART1は、1985年8月に発売された。この時の横井孝二は、17歳の高校3年生だった。
メモ 1985年5月30日に開催された東京おもちゃショー用のバンダイのカタログにて「8月登場!!」と記載されている。


各ロボットのデフォルメのバランスは、少々異なる。頭頂部の出っ張り凸は含めず、RX-78ガンダムとガンキャノンとザクとアッガイとZガンダムは2.5頭身、ギャンは2.4頭身、グフとガルバルディは2.6頭身、ゲルググは2.9頭身になっている。
メモ スーパーディフォルメガンダムワールドシリーズは佐々野雅哉の初期イメージとは異なり、2.5頭身~3頭身に見える物が多い。

成型色は、緑色、青色、橙色、黄色、肌色の5色のみで、全て艶は無い。
メモ 5色以外の色と艶が有る物は、他の製品になる。

佐々野雅哉が特機事業部自販課にて企画開発したデフォルメ製品
1984年?月発売
キン肉マン ノコレスラー

1984年10月発売
重戦機エルガイム

1984年11月頃発売
重戦機エルガイム ※10月発売版に4体追加

1984年12月頃発売
超人キンタマン

1985年3月発売
超力ロボ ガラット

1985年4月発売
ゴジラダッシュ

1985年5月発売
超時空要塞マクロス
ディフォルメヒーローシリーズ

1985年7月発売
ディフォルメZガンダム PART1

1985年8月発売
スーパーディフォルメガンダムワールド PART1

1985年9月発売
ディフォルメヒーローシリーズ パート2 北斗の拳

1985年10月発売
ディフォルメZガンダム PART2 ※PART1に4体追加

1985年?月発売
スーパーディフォルメガンダムワールド MARK2 ※PART1に10体追加

1985年12月頃発売
ディフォルメZガンダム PART3 ※PART2に4体追加

1985年?月発売
超時空要塞マクロス ディフォルメマクロス Part2 ※5月発売版に4体追加

1985年?月発売
超人キンタマン パート2

1985年?月発売
超人キンタマン プラキンタマン

スーパーディフォルメガンダムワールドMARK2以降のシリーズ名はPARTではなく、MARKになった。佐々野雅哉がガンダムMk-IIから着想を得て、シリーズ名を変更した。
メモ スーパーディフォルメガンダムワールドMARK2の成型色は、PART1と同じく5色のみ。

佐々野雅哉は1985年9月に他の部署に転属したため、企画開発中だったスーパーディフォルメガンダムワールドMARK3SDキン肉マンスーパーディフォルメホラーワールド、食玩のランドサーフバギーLSB-5~LSB-12追加版は、他の社員が引き継いだ。


SDガンダムには多くの人が関わり、デフォルメのバランスが異なる様々な立体物が発売された。佐々野雅哉が玩具部にて企画開発して、同部の野中剛がデザインしたSDガンダムのガンダムクロスは独特な雰囲気があるが、頭、腕、脚の正面バランスはロボチェンマンのガンダムフルアーマータイプの箱絵に近い。
メモ ポピー事業部は、玩具部に部署名を変更した。
メモ 横井孝二は1年浪人して、1987年に日本大学の夜間学部に入学した。この時に佐々野雅哉は横井孝二のために千葉市稲毛区にてアパートの契約をして、さらにレイアップの中田ルオ社長に横井孝二を雇うよう説得して絵の仕事ができる環境を整えた。


SDガンダムに関する怪しい話 1

ホビージャパン2012年5月号の横井孝二をインタビューした記事にて、横井孝二をSDガンダムの生みの親に指定していて誇張がある。本件にて生みの親という言葉を用いると、ガンダムを大胆に縮めた先駆者、製品の開発責任者、製品名の命名者という意味まで含んでしまう。
メモ 生みの親という言葉は、物事を最初に始めた人、最初に作り出した人を意味する。 ホビージャパン2012年5月号以降、横井孝二を紹介した記事にてSDガンダムの生みの親というキャッチコピーや文を見ることが多くなり、プロパガンダ的な雰囲気がある。
  • SDガンダムの第1号製品とも言えるロボチェンマンのガンダムフルアーマータイプを企画開発したのは、外岡仁だった。
  • スーパーディフォルメガンダムワールドを企画開発したのは、佐々野雅哉だった。ロボットの頭を大きく、胴体を短く、脚を省いて靴を付けたスタイルを基本にして、それをスーパーディフォルメ、SDと呼称した。
    部長の仲吉昭治と、佐々野雅哉より1期上の柴崎誠は、まだ高校生だった横井孝二を起用することに反対したが、佐々野雅哉は独断で横井孝二が住む名古屋まで自費で行き、追加で発注した絵の費用を自費で支払い、企画を押し通した。
  • SDという製品名の企画で最初に起用されたデザイナーは、横井孝二だった。佐々野雅哉の要望に沿って絵を描いて、この時に地球連邦系のロボットデフォルメに苦戦した。
  • スーパーディフォルメガンダムワールドPART1の原型を制作したのは、宮本原型という会社だった。スーパーディフォルメガンダムワールドの場合、立体物の制作者はもう1人のデザイナーと言える。
こうした経緯があったため、SDガンダムの生みの親として1人を指定してしまうと、当該人物が手柄を独り占めしている感じになってしまう。
メモ 生みの親という言葉をデザイナーという言葉に置き換えれば、問題は解消する。
メモ マニアックな内容の記事にて、生みの親や元祖や第一人者等の言葉が用いられる傾向がある。生みの親や元祖や第一人者であって欲しい、という心理が影響して、祭り上げてしまう可能性がある。

他にもホビージャパン2012年5月号の記事は、誤解がある。「2頭身にギュっと縮めながらも精密さを持ついわゆるSDスタイルは、SDガンダムより発生したといっていいだろう」と記載されていて、SDガンダムの表現はSDガンダムの発足時に無の状況から発案されたことになっている。


しかし1984年にはロボチェンマンのガンダムフルアーマータイプが発売されていて、箱絵はSDスタイルと言える雰囲気になっている。「というかSD以前にSDという言葉は無かったし」との補足が記載されているが、表現方法に言及する場合は製品名で区切ってはならない。


脚がほとんど無い丸っこいスタイルについても、スーパーディフォルメガンダムワールドよりも前に発表された作品がある。1985年4月15日に発売されたコミックボンボン1985年5月号にて、こちらロボ番地!が掲載された。作者のときた洸一が描いたMS-06RザクIIは、脚がほとんど無くスカートも縮めていて、横井孝二が描いたうぢ虫ぐわんだむのザクに近いデフォルメのバランスになっている。こちらロボ番地!はロボチェンマンとパロチェンマンを題材にした企画だったが、ときた洸一はデフォルメのバランスを変えて描いていた。
メモ 模型情報1985年2月号にて掲載されたときた洸一が描いたズワースは、横井孝二が描いたダンバインから着想を得た可能性がある。
メモ 1984年にバンダイのマミート事業部から発売されたダルマチック スピンザウルス ゴジラ対メカゴジラセットの箱絵のメカゴジラは、2頭身で丸っこい。絵を描いた人は分からない。

他にもホビージャパン2012年5月号の記事は、誤解がある。横井孝二がデビュー前にプライベートで描いた絵として、ロボチェンマンの挿絵が掲載された。

ホビージャパン2012年5月号のSDガンダムの誕生について記載されているページは、参考にできる部分とできない部分に注意して読む必要がある。
メモ 当該記事は、栗原昌宏が執筆した。


SDガンダムに関する怪しい話 2

1995年6月9日に発行されたガンダム神話にてスーパーディフォルメガンダムワールドの開発について記載されているが、佐々野雅哉がこの本の著者に直接伝えた話ではないために誤解がある。
  • 「佐々野雅哉は周囲の無関心ぶりをよそに、このデフォルメキャラクター物の動きに注目していた」の件は、若干異なる。佐々野雅哉は当時、イメージした物がガシャポンで製品化されていなければ、真っ先に開発することを考えていた。周囲の無関心について言及したことは無い。
  • スーパーディフォルメガンダムワールドの企画を始めた時に佐々野雅哉の上司が「ガンダムに対する冒涜だ」と発言した件は、佐々野雅哉は部長の仲吉昭治、次長、係長、柴崎誠からは直接そうした発言は聞いていない。仲吉昭治と柴崎誠が横井孝二を起用することに反対したことを加藤智は知っていたため、加藤智がこの本の著者に状況を伝えた時に変質した可能性がある。
  • うぢ虫ぐわんだむの文字が原因で創通エージェンシーの担当者が「キャラクターをバカにしている」と佐々野雅哉に対して怒った件は、実際は担当者から、うぢ虫ぐわんだむとは何ですか、という質問があったのみだった。
  • スーパーディフォルメガンダムワールドPART1の原型を制作したのは鍬形加工ではなく、宮本原型という会社だった。鍬形加工は、スーパーディフォルメガンダムワールドPART1を生産した。
他にもガンダム神話は、誤解がある。横井孝二は機動戦士ガンダムのロボットを2頭身で描いて模型情報に投稿したことが記載されているが、横井孝二はそのような絵は投稿していない。この誤情報は、俺たちのガンダム・ビジネス等へ拡散した。


1982年12月25日に発行された模型情報1983年1月号にて、アッグガイを約2頭身にした絵が掲載された。投稿したのは、横井孝二ではない。
メモ 模型情報1981年8月号にて、モノアイにニッコリ記号∩を描いた絵が掲載された。


ガンダム神話のSDガンダムの誕生について記載されているページは、参考にできる部分とできない部分に注意して読む必要がある。
メモ ガンダム神話は、猪俣謙次が執筆した。


SDガンダムに関する怪しい話 3

ガンダムに関連した立体物を展示したガンダムワールドが、日本の各地にて開催された。その会場にてSDガンダムの歴史について記載されているパネルがあり、誤情報を流していた。
メモ 2012年12月1日~2013年1月31日にダイバーシティ東京プラザ7Fのガンダムフロント東京にて開催されたGUNPLA展でも、ほぼ同じパネルがあった。
メモ SDガンダムが展示されないガンダムワールドもあった。

SDガンダム誕生!
高校生が模型誌に投稿したイラストから始まった・・・

『機動戦士ガンダム』劇場三部作の公開終了後もガンプラブームは衰えることなく、バンダイは『模型情報』という月刊誌を発行して、ガンプラの最新商品情報や模型製作例などを紹介していた。
その読者投稿イラストコーナーに、風変わりなモビルスーツのイラストが掲載される。愛知県在住の高校生・鳥山劣君(ペンネーム)が描いたそのイラストは、三頭身にデフォルメされたガンダムだった。彼のイラストに注目した編集部は、1984年3月号から『MJ劇場』のタイトルで『模型情報』に4コマ漫画の執筆を依頼。この『MJ劇場』が現在まで続くSDガンダムの原型となった。
ペンネーム・鳥山劣君は、現在では"横井画伯"と呼ばれる横井孝二氏。SDガンダムの生みの親としてファンから神格化されている存在である。もう一つのガンダムワールドである『SDガンダム』の歴史は、アニメではなく、高校生が描いた独創的なイラストから始まったのだ。

イメージ戦略が暴走して、情報操作になっている。
メモ 横井画伯という呼称は、大衆から広まったのではない。バンダイの出版物講談社の出版物にて「横井画伯」という呼称が用いられて、大衆に広まった。
メモ ポスターにて「企画協力 バンダイ」と記載されているため、パネルの文を執筆した担当者の名前と部署をバンダイに問い合わせたが、情報は得られなかった。

2018年4月28日~5月6日に開催されたガンダムワールド2018in高岡にて、パネルの文が少し修正された。

SDガンダム誕生!
『機動戦士ガンダム』劇場三部作の公開終了後も、ガンプラブームは衰えることなく、バンダイは『模型情報』という月刊誌で、ガンプラの最新商品の情報や模型の製作例などを精力的に紹介していた。
その『模型情報』の読者投稿イラストコーナーの常連に、愛知県在住の学生・鳥山劣君(ペンネーム)がいた。彼が描くガンダムシリーズのモビルスーツの独創的なイラストに、編集部は注目。1984年3月号から、「MJ劇場」のタイトルで4コマ漫画の執筆を依頼する。この「MJ劇場」が1985年に発売されるガシャポン(カプセル入り玩具)の「スーパーディフォルメガンダムワールド」シリーズ誕生のきっかけとなり、SDガンダムの歴史が始まる
ペンネーム・鳥山劣君は、現在では"横井画伯"と呼ばれるイラストレーターの横井孝二氏。SDガンダムの生みの親として、ファンの中には神格化する人も多い。もう一つのガンダムワールドであるSDガンダムの歴史は、アニメからではなく、学生が描いた独創的なイラストをきっかけに始まったのだ。

印象操作は、継続している。

SDガンダムの表現はSDガンダムの発足時に無の状況から発案されたのではなく、1984年に製造されたロボチェンマンのガンダムフルアーマータイプからの流れがある。SDガンダムの歴史と表現に言及する場合は、ロボチェンマンのガンダムフルアーマータイプを起点にしなければならない。人物を紹介する場合は、最初にバンダイ静岡工場技術部開発課の外岡仁、次に特機事業部自販課の佐々野雅哉と学生の横井孝二になる。
メモ 佐々野雅哉はチョロQダグラムからロボチェンマンへの流れは認識していて、その流れに乗り変化を加えたのがスーパーディフォルメガンダムワールドだと述べている。
メモ 1985年1月29日に開催されたバンダイフェア用の特機事業部のカタログにて、銀色の試作物が掲載された。ロボチェンマンのガンダムフルアーマータイプの表現をガシャポン製品に取り入れようとしたことが分かる。
メモ 1987年に発売されたBB戦士は、ロボチェンマンのコンセプトを継承した企画だった。1988年にスーパーディフォルメガンダムワールドの表現を取れ入れて、SDガンダムBB戦士に変化した。

社史、製品の開発史、美術史に言及する場合は、大衆受けを狙ってはならない。


SDガンダムに関する怪しい話 4

2004年7月9日に発売された機動戦士ガンダムヒストリカ第8巻の横井孝二をインタビューした記事にて、誤解がある。「最初にSDをデザインさせたバンダイの担当の考えはシンプルだった。その数年前に人気を呼んだDr.スランプ アラレちゃん。このかわいらしいキャラクターは老若男女を問わず広く受け入れられていた。ガンダムにもそのテイストを盛り込むことで敷居を低くしてあげれば、子供や女の子にも広がるに違いない。」と記載されているが、佐々野雅哉はドクタースランプのファンではあるが、企画時にドクタースランプのテイストを盛り込むことは考えたことは無く、言及したことは無い。
メモ 当該記事は、池上隆之が執筆した。

さらに玄光社PICTURESの2020年3月4日の記事にて、「バンダイさんは本当は鳥山さんに描いてほしいんだろうなと」と記載されているが、佐々野雅哉は鳥山明に発注することは考えていなかった。
メモ 当該記事にて、高校に入学後に絵の投稿を始めたことが記載されている。前述のガンダムワールドのパネルの内容と一致する。
メモ 当該記事は、関根慎一が執筆した。


SDガンダムに関する怪しい話 5

1994年7月に発行された超音速のMS少女にて、ロボチェンマンの企画開発に横井孝二が関わったことが記載されているが、誤解がある。プラモデルの箱や組立説明書を作製していたバンダイ静岡工場の技術部デザイン課が、ロボチェンマンの組立説明書にて掲載する挿絵のために横井孝二を起用した。横井孝二は、ロボチェンマンの企画開発には関わっていない。
メモ 当該記事は、伊藤隆介=村雨ケンジが執筆した。
メモ 1984年11月26日に発売されたコミックボックスジュニア1985年1月号にて、横井孝二が描いた東宝特撮キャラクターが掲載された。


SDガンダムに関する怪しい話 6

スーパーディフォルメガンダムワールドPART1は1985年8月に発売されたが、俺たちのガンダム・ビジネス、ホビージャパン2008年1月号、EX大衆2019年10月号ORICON NEWS 2020年1月13日の記事は、何故か1985年6月に発売されたことになっている。
メモ 2015年6月に横井孝二がツイッターにて誤情報を流してしまった。この時にツイッターにて異論を呈したのは、1名のみだった。 誤情報の起点は、ウィキペディアのSDガンダムのページの可能性がある。2004年2月9日にウィキペディアを更新した人は、模型情報1985年6月号にてスーパーディフォルメガンダムワールドの見本が掲載されたことを誤解して「1985年6月」と記入してしまった可能性がある。

関連して、発売年についてもミスが発生しやすい。ホビージャパン2000年7月号の高井近志=パチ車でおじゃるが執筆した記事にて「1986年より発売」、ホビージャパン2000年7月号の小澤勝三が執筆した記事にて「誕生から13年」=1987年、ホビージャパン2008年1月号にて「SDガンダム生誕20周年」=1988年、2012年12月に開催されたGUNPLA展にて「1987年に発売」、と記載されている。
メモ バンダイのウェブサイトは「1985年」、サンライズのウェブサイトも「1985年」と記載されていて、問題は無い。
メモ バンダイに問い合わせて、スーパーディフォルメガンダムワールドPART1の出荷日や発売日に関する文書は無いとの情報を得た。


SDガンダムに関する怪しい話 7

2018年にバンダイは、SDガンダム30周年を行った。
メモ バンダイの印象操作的な表現と、サンライズの印象操作的な表現。どちらもSDガンダムが誕生したのは1988年と読める。


1988年を基準にして記念祭を行うことは、間違いではない。 しかし1988年を基準にして周年という言葉を用いてしまうと、スーパーディフォルメガンダムワールドが宙に浮いてしまう。 周年という言葉は、創立〇周年、創業〇周年、開店〇周年、市制〇周年、結婚〇周年等、事が始まった年を基準にして用いる。1985年8月を基準にして全てのSDガンダムを統括するSDガンダム〇周年を行い、1984年9月を基準にしてデフォルメのガンダム製品誕生祭を行い、1988年を基準にして各製品の記念祭を行えば、調和が取れる。
メモ SDガンダムというタイトルは、アニメの機動戦士SDガンダムが初出ではない。ガシャポンのSDガンダム百科とファミコンのSDガンダムワールド ガチャポン戦士スクランブルウォーズが1987年に発売された。


SDガンダムに関する怪しい話 8

2013年3月23日に兵庫県立美術館から発売された超・大河原邦男展レジェンド ・オブ・メカデザインにて、誤解がある。「既存のロボットを可愛らしくアレンジする最初の例は、チョロQダグラムに求めることができる」と記載されているが、こうした表現にも過去からの流れがあり、チョロQダグラムは起点ではなく、きっかけ点になる。
メモ 当該記事は、兵庫県立美術館の小林公が執筆した。

1982年8月7日に放送された逆転イッパツマンの第26話にて、関節の可動を気にしないデフォルメの逆転王が描かれている。「消しゴム、消しゴム、消しゴム」というセリフがある。
メモ 逆転王は、大河原邦男がデザインした。デフォルメの逆転王は、佐久間信計がデザインした可能性がある。
メモ ロボットの各パーツが密着していても、アニメーションの場合は原画担当者と動画担当者がぬいぐるみ的に曲げる方法で処理するため、問題にはならない。
メモ アニメのチョロQダグラムにて、ダグラムの身長が伸びてデフォルメ体型に戻る演出は、逆転イッパツマンの第26話または、週刊少年ジャンプ1980年2月11日号No.5・6にて掲載されたドクタースランプの第2話から着想を得た可能性がある。
メモ BB戦士のZガンダムは、デフォルメの逆転王に雰囲気が近い。

1979年5月1日に発売されたテレビマガジン1979年6月号にて、成井紀郎が描いたデフォルメのRX-78ガンダムが掲載された。RX-78ガンダムを縮める時にディテールをどうするかが問題になるが、服が描かれている。


1979年にポピーから、ウルトラマン怪獣ケシゴムのキングジョーとユートムが発売された。
メモ ポピーはバンダイの子会社だった。