元祖に関する誤解

2012年6月にグリフォンエンタープライズから幻夢戦記レダのフィギュアが発売された。

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広告やパッケージにて、「元祖ビキニアーマーのヒロイン」というキャッチコピーが掲載された。

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そして2012年9月26日に発売されたいまだから語れる80年代アニメ秘話 美少女アニメの萌芽にて、「元祖ビキニ戦士の生みの親」というキャッチコピーが掲載された。
メモ 元祖という言葉は、物事を最初に始めた人を意味する。そして生みの親という言葉は、物事を最初に始めた人、最初に作り出した人を意味する。
メモ マスメディアは演出として、大袈裟な言葉をキャッチコピーに用いることがある。また創作者のファンは、生みの親や元祖的な存在であって欲しい、という心理から、誇張した表現をSNSにて用いることがある。

幻夢戦記レダは、ビキニアーマー女戦士やビキニ女戦士の元祖ではなく、いのまたむつみはビキニ女戦士の生みの親ではない。例えばキーワードを多くして、日本の作品 + 硬そうな青色のビキニトップ + ショルダーアーマー + ブーツ + 剣、の組み合わせにしても、1983年4月15日に発売されたふぁんろーど1983年5月号の表紙にて掲載された爆走フラッシュ・ギャルや、1983年5月30日に発行された模型情報別冊MSバリエーションハンドブック2の裏表紙にて掲載されたグフレディがある。
メモ 情報を遮断した場合を除いて、創作者は様々な創作者の作品から影響を受け続ける

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ビキニトップ上のアールヌーボー的な装飾は、1984年1月30日に発売されたCOMIC劇画村塾1984年3月号の表紙絵のほうが一足早い。高橋留美子が描いた絵は、レイア姫から着想を得た可能性がある。


1985年3月1日にOVAを発売するまでの経緯

1984年2月中旬、サンプルストーリーを執筆した武上純希の提案により、幻夢戦記レダという仮タイトルが決まった

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1984年2月26日に発売されたザ・モーションコミック1984年4月号にて、いのまたむつみが描いたコミックが掲載された。電柱の絵に、幻夢戦記レダの広告が描かれていた。
メモ 表紙のオリジナルキャラクターは、平野俊弘が描いた。そしてUNBALANCE ANGELユウにて、湖川友謙がビキニアーマー女戦士を描いていた。
メモ 同時期に、いのまたむつみが作画監督と原画を担当したプラレス3四郎の最終話が放送された。車の絵にLEDAの文字が描かれていた。

1984年3月10日に発売されたジ・アニメ1984年4月号にて、中期~後期案付録ポスターにて掲載された。さらに5月号6月号にも掲載されて、5月号決定稿に近い。アニメック1984年6月号にて、初期案が掲載された。
メモ いのまたむつみの1980年代のサインは、I の文字にミスがある。

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1984年6月30日に発行されたジ・アニメ特別編集いのまたむつみラブリーコレクションにて、初期~後期案が掲載された。決定稿は掲載されていない。
メモ 1985年4月15日に発行されたコミックボンボンスペシャル4幻夢戦記レダにて、企画がスタートしたのは1983年12月頃、作画作業がスタートしたのは1984年6月頃だったことが記載されている。
メモ カナメプロダクションがファンクラブ会員に販売した同人誌 VIVA! KANAME にて、当初は30分物として、1984年7月に完成させる予定だったことが記載されている。

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1984年9月17日に東宝本社にて、製作発表記者会見が行われた。

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1984年10月10日に発売されたジ・アニメ1984年11月号の表紙にて、決定稿を基本にした絵が掲載された。

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そして、正面向きの決定稿が掲載された。
メモ 同時期の他のアニメ誌でも同じ絵が掲載された。9月17日に行われた製作発表記者会見にて、東宝が各出版社に資料を配布した可能性がある。

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1984年10月15日に発売されたコミックボンボン1984年11月号から1985年3月号まで、小説が掲載された。菊地秀行が執筆して、挿絵はカナメプロダクションの渡辺真由美と山内英子が担当した。

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1984年11月6日に発行された模型情報別冊プリティ・フィギュアの表紙にて、カナメプロダクションの小原渉平が描いた絵が掲載された。

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1984年12月10日に発売されたマイアニメ1985年1月号にて、朝霧陽子についての変なプロフィールが掲載された。誕生日は8月27日、住所は横浜市緑区、お好み焼きとチーズケーキが好き等、他の出版物には掲載されていない情報がある。
メモ 該当の記事を執筆した吉岡平に問い合わせて、誕生日等の情報はでっちあげた可能性が高く、現在は執筆時の情況は記憶が無い、との情報を得た。

1984年12月23日に開催されたコミックマーケット27にて、一般人がコスプレをしていた。

1985年1月20日に目黒公会堂にて完成記念イベントが行われて、映画方式で初公開された。

1985年1月25日に発売されたホビージャパン1985年2月号のホビーショップラークの広告にて、1/12サイズのレジンキットフィギュアが2000円で販売されたことが掲載された。フィギュアモデラーの秋山徹郎が原型製作と複製をして、模型店に卸販売していた。
メモ 卸販売していた件は、秋山徹郎に問い合わせて情報を得た。
メモ 1985年4月にツクダホビーから1/6サイズの無塗装フィギュアが発売された。そして1985年6月に1/12サイズの無塗装フィギュアが発売された。1985年6月に日東科学から1/12サイズのプラモデルが発売された。

1985年2月10日に発売されたマイアニメ1985年3月号にて、付録決定稿が掲載された。
メモ 決定稿にて「右 かたあてとむねあての間はつながってまへん」との説明があり、ビキニトップはアーマーとして描いたことが分かる。
メモ 決定稿は、変な箇所がある。カップの上の細いショルダーストラップを消して、しかし背中側のショルダーストラップは残して、前と後ろで辻褄が合わない。さらに左側のカップの縁とショルダーアーマーの縁を丸いパーツで繋げていて、腕を上げると同時にカップが上方向に引っ張られてズレることになる。

1985年3月1日にビデオが発売された。


幻夢戦記レダIIに関する混乱

1985年12月5日に発売された7インチシングル盤レコード、幻夢戦記レダIIイメージソング夢の迷路は、表示が混乱している。

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表紙の片面は幻夢戦記レダIIのイメージソングになっていて、もう片面は幻夢戦記レダのイメージソングになっている。そして1985年に配布された映画のチラシ幻夢戦記レダのイメージソングになっていて、キングレコードの広告は幻夢戦記レダIIのイメージソングになっている。
メモ LP盤レコード幻夢戦記レダIIイメージアルバムにて1作目の曲を入れたことが影響して、混乱した可能性がある。

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さらに表紙の裏面と広告にて、幻夢戦記レダIIを1986年の夏に劇場公開することを予告していたが、幻夢戦記レダを製作したカナメプロダクションが1986年の夏に公開したのはウインダリアだった。
メモ 1985年9月10日に発売されたジ・アニメ1985年10月号にて、ウインダリアの企画が発表された。秋本理央幻夢戦記レダIIについて言及していて、この時点では幻夢戦記レダIIの企画はウインダリアの企画と同時進行していたことが分かる。
メモ ウインダリアのクレジットにて「製作 株式会社あいどる 株式会社カナメプロダクション」と記載されている。カナメプロダクションも出資したのだろうか。

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1986年1月21日に発売されたLP盤レコード、幻夢戦記レダIIイメージアルバムにて掲載された大雑把なあらすじの基は、執筆した首藤剛志が2006年にブログにて公開した。 首藤剛志によると、このストーリーで劇場公開する計画があったとのこと。
映画化ぎりぎりまでいって音楽ができ、声優まで決まって、制作会社の都合で、映画化できなかったものです。
企画が中止になったことは、カナメプロダクションが破産したこととは関係ない。カナメプロダクションが破産したことにより企画が中止になったという誤情報は、ウィキペディアと個人ウェブサイトが発信源になっている。
メモ 脚本作りは捗らず、複数の脚本家が関わった後に首藤剛志が加わって完成した。版権を管理している東宝に問い合わせて、情報を得た。
メモ カナメプロダクションを運営していた人に、何があったのか問い合わせる必要がある。脚本が完成した頃にはカナメプロダクションの経営は苦しくなっていたらしいことを、版権を管理している東宝に問い合わせて情報を得たが、実際はどうだったのだろうか。
メモ 原画や動画は、製作されなかった。石田敦子に問い合わせて、情報を得た。
メモ カナメプロダクションが1982年に発表したオリジナルTVアニメ企画、宇宙船ギャラップ宇宙冒険隊メカベンジャーも首藤剛志が関わったが、中止になった。宇宙冒険隊メカベンジャーはコミックとしてSF&FANTASYリュウ1982年9月号VOL.19から連載開始されて、アニメショップを経営していたあいどるからポスターが発売されて、マミートからチョロQ的な玩具発売された。
メモ 幻夢戦記レダIIイメージアルバムの解説書にて掲載された大雑把なあらすじは、1987年9月5日に発売されたCD幻夢戦記レダSPECIAL SELECTIONオリジナル&イメージ・サントラ解説書にも掲載された。
メモ レコードとCDの発売日は、パッケージの端にて表示されている。例えば夢の迷路の場合は[I・12・5]とあり、Nは1984年、Iは1985年、Hは1986年、Oは1987年、12月5日、となる。
メモ 首藤剛志は、2010年に死去した。そして幻夢戦記レダと幻夢戦記レダIIイメージアルバムの音響監督を担当した松浦典良は、2005年に死去した。


幻夢戦記レダ2に関する2度目の混乱

1987年8月10日に発売されたアニメディア1987年9月号と、1987年8月26日に発売されたアニメV 1987年10月号にて、幻夢戦記レダ2のストーリー原案コンテストが開催された。

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コンテストが開催されたことにより、LP盤レコード幻夢戦記レダIIイメージアルバムにて掲載されたストーリーは廃止になったことが、大衆に伝わった。

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アニメディア1987年9月号にて、いのまたむつみが描いた新作が大きく掲載された。

新しい幻夢戦記レダ2は1988年の夏に発売することを予告していたが、またもや製作されなかった。

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1987年12月10日に発売されたアニメディア1988年1月号と、1987年12月22日に発売されたアニメV 1988年2月号にて、コンテストに応募があった約1400通の中から、10作品が選ばれたことが発表された。
メモ 監督の湯山邦彦は、審査員を辞退したらしい。

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ところが、1988年1月9日に発売されたアニメディア1988年2月号と、1988年1月26日に発売されたアニメV 1988年3月号にて、入選作品は無しと発表された。さらに準入選とアニメディア賞は、前月号にて発表された2次審査通過者とは異なる名が発表された。

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アニメV 1988年3月号にて、賞金は20万円ではなく5万円になったことが発表された。

1988年にカナメプロダクションは破産した。
メモ カナメプロダクションを運営していた人に、何があったのか問い合わせる必要がある。
メモ 東宝には、続編に関する企画書等の書類は残っていない。テレホンカードを作った記録のみ、残っている。版権を管理している東宝に問い合わせて、情報を得た。
メモ 1988年にカナメプロダクションは社名をディーバに変更した。社名の変更日は分からない。
メモ ディーバが破産した日が分からない。1988年7月30日に発売されたワット・ポーとぼくらのお話のクレジットには、ディーバの表示は無い。6月頃に破産だろうか。官報情報検索サービスを利用すれば破産した日が分かるが、費用がかかってしまう。
メモ 幻夢戦記レダ2に関する絵は、いのまたむつみ画集 月の聲 星の夢にて掲載された。
メモ カナメプロダクションは、東京都杉並区宮前1-7-7、松木ビルの2Fにあった。